UCC ひと粒と、世界に、愛を

So, Coffee?

FEATURE
山とコーヒー
#03
#03

石川直樹

写真家

ヒマラヤで飲むコーヒーの味わいとは?
石川直樹が綴る、山とコーヒーの記録。

辺境から都市まで。世界中を旅しながら、自然や人々の営みをテーマにした作品の発表を続ける写真家の石川直樹さん。今年6月には約2ヵ月にも及ぶヒマラヤ遠征を敢行。8000m峰2座の登頂を成し遂げた。その過酷な遠征の先々で味わったコーヒーを巡る記録を石川さん自ら文章に綴ってくれた。
Sep.29.2023

text & photography:Naoki Ishikawai
edit:Shigeru Nakagawa
produce:Yuki Tadano(MAGAZINEHOUSE CREATIVE STUDIO)

ヒマラヤとコーヒー

 “ガッシャブルムⅠ峰”という、パキスタンの高峰に登頂し、日本に帰ってきてからもうすぐ一ヵ月が経とうとしている。ぼくは今日も当たり前のように喫茶店でPCを開いて仕事をし、コーヒーを二杯飲んだ。標高5000mの荒涼としたベースキャンプで凍えるような日々を過ごしていたのは、遠い昔に感じる。寒さから逃れたい、暖かいところへ行きたい、とあの頃は毎日考えていたのに、いざ酷暑の日本に帰国してありふれた日常をおくりはじめた途端、ヒマラヤが恋しくなるから不思議だ。  こうした日常から、徐々に山中に入っていくにあたって、コーヒーの在り方は少しずつ変化していく。今日は「山とコーヒー」というよりも、「ヒマラヤとコーヒー」について書いていこう。

 ヒマラヤ登山の入口は、一も二もなくネパールの首都カトマンズである。カトマンズにはタメル地区と呼ばれる安宿街があり、一泊数百円ほどの小さな宿から、そこそこ高級なホテルまで、旅行者の多様なニーズに応える宿泊施設がひしめきあっている。お土産屋、山道具屋、本屋、雑貨屋、クラブに飲み屋、そしてありとあらゆる飲食店が立ち並ぶ。  ぼくが今まで泊まった最も安い宿は、『ラサホテル』という名の一泊500円くらいの宿である。ラサというからにはチベット人が経営しているのだろうか、本当にラサにあるような安宿を彷彿させた。ガイドブックにも紹介されていないので宿泊客はいつもそんなに多くない印象を受ける。そのわりに、きちんと温水シャワーが出て、部屋もまあまあ清潔だ。  ホテルの受付はビルの二階にあり、一階は、コーヒーが美味しい「ちくさ茶房」がある。「ちくさ茶房」はその店名からわかるように、日本人が経営している店で、手書きの日本語による味のある看板がおもてにかかっている。店員はすべてネパール人だが、店の雰囲気は、日本のどこにでもあるような喫茶店で、コーヒーを頼むとハンドドリップで淹れてくれる。ぼくはもっぱら朝食時に利用させてもらった。パンケーキやサンドイッチなどの軽食が充実しているのがよい。カトマンズでは、日本と変わらないコーヒーがまだ飲めるのである。

 このカトマンズのタメル地区で登山の準備を整え、国内線の飛行機に乗ってルクラという村に飛び、そこから世界最高峰に至るエベレスト街道と呼ばれる道を北上して、ヒマラヤの懐に入っていく。すると、途中でシェルパたちの生まれ故郷である、ナムチェバザールに辿り着く。この村は、エベレストに向かう人々が必ず泊まっていく関所のような場所で、標高3440mにあって、周囲をヒマラヤの山々に囲まれている。  過去に何度も訪ねている村だが、行く度に、新しいお店やホテルができている。ぼくが以前入り浸って仕事をしていた『ナムチェベーカリー』や焼き立てのパンとコーヒーを出す『エベレストベーカリー』という有名店はいつのまにかなくなってしまった。チョコデニッシュとコーヒーを注文して、WI-FIが飛ぶ店内でメールの返信などをしていた日々が懐かしい。  今は、その跡地に『シェルパ・バリスタ』なるお店ができていた。入ってみると、大音量で音楽が鳴り響き、天井に設置されたテレビには、アメリカのプロレス番組が映し出されていた。マッチョな金髪野郎が雄叫びをあげながら、相手のおっさんにラリアットを繰り出しているさまを、なぜに自分はヒマラヤの山奥で見なきゃならんのか、と半ば呆然としてしまったが、これもまた時代の移り変わりか。ただ、コーヒーの味は、確かに本物であった。甘ったるいケーキによく合うしっかりしたコーヒーを飲みつつ、アメリカの大味なプロレスをぼんやりと眺める。決して静かなひとときとは言えないが、これもまたある意味ヒマラヤらしくていいかあ、とだんだん思えてくるから不思議だ。  北米の片田舎にあるカフェバーのようなその店は、ヒマラヤ山中の標高3440m地点で今日も営業中である。たぶん。

 このナムチェバザールが本格的なコーヒーを味わえる最後の村で、ここから先、エベレストに近づいていくと、インスタントコーヒーの世界に突入する。エベレストや世界第四位の高峰ローツェなどに登る際は、標高5200mにあるベースキャンプに長く滞在するのだが、このベースキャンプで飲むコーヒーを、ぼくはほぼ黒いお湯だと考えていた。  こうしたキャンプ地でどうしてもきちんとした味のコーヒーを飲みたいときは、日本から持参するパックを使用する。ガスコンロで雪を溶かしてお湯を沸かし、友人からもらったドリップコーヒーの1パックをコップに装着する。上部キャンプにコップは持っていかないので、そういうときはプラスチックのボウルで飲む。  1パックは当然コーヒーを1杯だけ抽出できるように作られているわけだが、山中では貴重なものなので、何杯も何杯もその1パックでコーヒーを作って飲んだ。だから、テント内で飲むコーヒーは、飲むごとに味も色も薄くなり、最後はコーヒーではなく、少し茶色くなったお湯になっている。それでも白湯を飲むよりは、量を飲める。高山病を予防するために無理矢理でも水分を摂らねばならず、薄くなったコーヒーのほうが、お湯よりはたくさん飲めるのでいつもそうしている。だから、ヒマラヤで飲んだコーヒーの味を思いだそうとすると、ぼくの舌に甦るのは、極めて薄味の「お湯寄りのコーヒーらしきもの」なのである。

 こうした特殊な日々を過ごして日本に帰ってから飲むコーヒーが、いかに美味しく感じられることか。こだわりの店でなくとも、どこの喫茶店で飲むコーヒーも、事実ぼくには至高の味だ。コーヒー豆の苦みを確かに知覚できるコーヒーを飲めるだけで幸せに感じてしまうのだ。

石川 直樹

写真家
いしかわ なおき|1977年東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。2008年『NEW DIMENSION』(赤々舎)、『POLAR』(リトルモア)により日本写真協会賞新人賞、講談社出版文化賞を受賞。最新作は、インド・ネパール国境にある難峰カンチェンジュンガの山頂に至る過程を記録した写真集『Kangchenjunga』(POST-FAKE)。開高健ノンフィクション賞を受賞した『最後の冒険家』(集英社)など、著作も多数。
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